奥多摩を舞台に駆け巡れ!青梅マラソンもあるし山岳レースもあるぞ!

TOPページ

アルプス三大北壁のグランドジョラス北壁・マッターホルン北壁・アイガー北壁です。この三大北壁を単独登攀を冬に成功させた世界初の登山家がいます。その登山家は長谷川恒男です。その長谷川恒男を記念した山岳耐久レースがあります。ランナーからは『ハセツネ』と呼ばれている『長谷川恒男CUP』ですが、正式名称は『日本山岳耐久レース』。東京都山岳連盟がかつて所属していた伝説クライマーの長谷川恒男にちなんで付けられました。

『ハセツネ』は奥多摩全山を1日つまり24時間で走破する三岳レースです。24時間奥多摩の山を走るこのレースは大人気のレースでもあります。そしてハセツネにエントリーしてこそ、トレーニングにも力が入るという程トレイルランニングをしている人にはハセツネに熱い思いをもっています。この大会にエントリーするには【制限時間内に完走する自信がある人】これが絶対的に必要な参加資格です。普通のマラソン大会とは違い、なんといっても山の中。それも24時間と考えるとかなりトレーニングを積んでいないとエントリーする気持ちにもなれない。そんなタフなレースのハセツネやはり完走率も高いのであります。2012年第20回大会の完走率は84.6%。驚きの数字です。男性の総合優勝者のDakota Jonesの優勝タイムは7時間22分7秒。ありえない!!と思ってしまいませんか?!女性の総合優勝者は佐藤光子。優勝タイムは9時間25分49秒。女性でも優勝タイムはこの数字です。年代別それもあえて年齢を重ねている年代でみてみると、男性70代の第一位のタイムは17時間50分23秒。女性60代第一位のタイムは16時間4分13秒。とてもじゃないですが、70代や60代でこのレースそのものに出ることすらすごいことですが、このタイムでゴールするなんて・・ 普段しっかりトレーニングを踏んでいるからこそ、叩き出せるタイムとしか言いようもなく尊敬してしまいます。ちなみにトレイルランニングの第一人者でもあるあ鏑木毅は2005年第13回大会で優勝しているプロのトレイルランナー(以前は群馬県庁職員)ですが、彼はセミナーでもハセツネのタイムとフルマラソンのタイムがランクの基準として使っています。そして上級者セミナーに入るための条件はハセツネ12時間です。

奥多摩の山を舞台にした三岳レースなので、リタイアするときももちろん自力で下山しなくてはいけません。もちろんリタイアポイントは比較的下山しやすい所を選んでくれていますが、リタイアするときにはかなり身体も消耗しているので1時間かけて下山することもあります。リタイアする時のことも考えてエントリーするとなると、かなりの走力がないとエントリーできないレースです。

ハセツネは毎年10月に開催されるレースですが、このレースに出場するトレイルランナーたちは週末ともなれば奥多摩にでかけて練習に励んでいます。ただがむしゃらに走ればいいというわけでもなく、体力と走力は絶対条件で必要ですがその他にも、地図に天候を読む力そして自分の体力や栄養状態を的確に判断できる力も必要になります。

夜間に走るというのも、このレースの魅力でもなり難しいところでもあります。スタートは午後1時スタートなので比較的ゆっくりした時間にスタートしますが、スタートして5時間も経過するとヘッドライトが必要になりそのまま夜を走るので装備もとても大事になってきます。どんなに早い選手でも、夜間走があるということになります。

そして忘れてはいけないのが給水です。バックパック収納型の給水する為のハイドレーションシステムを背負って走りますが、56KM付近の御岳に近くなるまで十分な水場がありません。たくさんの水を背負うと重くなってしまうし、かといって気温が高い時に少ない水だったら脱水症状もおこしてしまうし・・とその時の天気予報を考慮しながら装備を決めて行かなくてはなりません。ちなみにそんな水が支給されるのが1か所のみで1.5リットルだけ支給されます。

そして食料のエイドもありません。食料も自分で背負って走らなくてはいけない。まさに『日本山岳耐久レース』、耐久レースです。これも招待選手であっても同じ。手厚くサポートが受けられるわけでもありません。自分で計画した食料に水を、自分で背負って走る。気持ちを奮い立たせるのも自分、自分への挑戦。。とにかく出た人に言わせると【やみつき】になるそうです。

長谷川恒男CUPコース

コースは奥多摩山域(71.5キロメートル)累積標高差4500メートル

五日市会館前スタート→今熊神社→市道山分岐→醍醐丸→生藤山→土俵岳→笹尾根→三頭山→大岳山→御岳神社→金比羅尾根→五日市会館前フィニッシュ

フィニッシュ制限時間はスタートしてから24時間。もちろん関門もあります。予備関門を含めると、関門は4か所の設定です。各関門の制限時間に間に合わなければ失格となります。第1~第3の各関門ではチップによるタイム計測も行われます。

関門

  • 予備関門…入山峠(7km地点)⇒3時間
  • 醍醐丸(15.3km)⇒6時間
  • 第1関門…浅間峠(22.6km地点)⇒9時間
  • 第2関門…月夜見山第2駐車場(42km地点)⇒15時間 ※給水所が併設。水またはスポーツドリンク2Lを補給できます。
  • 第3関門…御岳山(58km地点)⇒21時間

御岳神社参道は、終盤の要でもあります。御岳神社参道まできたら残り10キロです。ハセツネに出るのはちょっと・・という方なら出ているトレイルランナー達を勇気づけることはできるはず!奥多摩へでかけてみたくなりませんか?!

御岳山

皇太子殿下も登山に訪れた御岳山(みたけ)さんは、東京都青梅市にあります。標高は929メートル。

そしてこの山はアクセスの良さもあって、元旦には初日の出を見に多くの参拝客が訪れます。御岳山は昔から山岳信仰の対象とされてきた山でもあるので、山頂には武蔵御嶽神社が建立されています。

武蔵御嶽神社

紀元前91年、崇神天皇(第10代天皇)に創建されたと言われていて、天平8年(736年)に行基が蔵王権現を勧請(文霊)したといわれいます。

文暦元年(1234年)に大中臣国兼(おおなかとみのくにかね)が荒廃していた社殿を再興してからは修験場として知られていて、関東の幕府や武士から多くの武具が奉納されました。慶長10年(1605年)には大久保長安を普請奉行として本社が、元禄13年(1700年)には弊殿と拝殿が建立されました。

国宝

赤糸威鎧(あかいとおどしよろい)

畠山重忠より建久2年(1191年)に奉納されたと伝えられています。様式からみると、平安時代後期の作品ではと推定されています。武蔵御嶽神社に神の宝として、ずっと大事に保存されてきました。

武士が台頭しはじめた平安時代に、武士の棟梁が着用する甲冑で平安時代の洗練された優雅さがあり武士として重厚さを併せ持っています。全重量は25.85㎏。

この時代の大鎧は、厳島神社などに残っているものなどすべて入れても10あるかないかの数しか現存していません。その中でもほぼ完全な状態で残っている最古の品で日本を代表する大鎧です。

江戸時代には徳川吉宗が上覧するために、江戸に運ばれて修理も施されています。そして明治時代にも日本美術院によって補修されていて、化学染料で染められていますが明治時代に修理された方が褐色しています。わずかに残っている赤みの強い色んほうが平安時代そのままのオリジナルで、今も鮮やかな赤色を保っています。

残念なことに、この染色された技術は伝承されていません。

寛政12年(1800年)には【集古十種】に松平定信が古器物の名品を記録したものにも記載されて有名になりました。

金覆輪円文螺鈿鏡鞍(きんふくりんえんもんらでんかがみくら)

社殿を再興した大中臣国兼が、神道の本迹縁起神道を極めたときに神馬に飾って神社に奉納したと伝えられています。鎌倉時代を代表する鞍として国宝に指定されていますが、この鞍には付属品として【舌長鐙(したながあぶみ)】と【杏葉轡(ぎょうようくつわ)】【鞦(しりがい)】とすべてそろっています。付属品がすべてそろっているということが貴重です。日本だけではなく、メトロポリタン美術館(ニューヨーク)でも展示される日本を代表する宝の1つでもあります。

重要文化財の数々

紫裾濃鎧(むらさきすそごのよろい)

昭和26年にサンフランシスコで開かれた日米講和記念展覧会に出品された品ですが、この作品は鎌倉時代中期頃の作品です。威毛(おどしげ)は1段目を白、2段目を黄、以下は薄紫から濃紫へ、裾に行くにしたがって色の濃い紫糸を用いた「紫裾濃」(むらさきすそご)と呼ばれる色目になっていて、現存する古甲冑の中でもこの色目を用いたものはなかなか他に見ることは出来ません。奉納したのは、鎌倉7代将軍の惟康親王(これやすしんのう)が、弘安の役に際して敵国降伏を祈願して奉納したといわれています。

鍍金長覆輪太刀(ときんながふくりんのたち)

神の太刀として、抜くことを許されないままに伝わったと言われています。神の宝として鎌倉時代の中期から伝えられている太刀ですが御嶽山が信仰の山だった通りに、神への信仰の深さを現しているように、刀身と鞘が当時のままの姿で残されています。慶長10年(1605年)に徳川家康より奉納されたものです。

宝寿丸太刀(ほうじゅまるたち)

宝寿とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて奥州平泉に存在していた【刀匠】(とうしょう)の銘です。そこから宝寿丸と呼ばれています。宝寿丸太刀、宝寿丸鞘太刀と大小で対となっています。伝承では、畠山重忠の奉納とされていますが、茎(なかご)に正中(1324年~1326年)と記されていることから、重忠の没後120年余りが経過しているので、伝説的として伝承されたといわれています。

そしてこれは、江戸時代にいったん紛失してしまっています。昭和に入ってから青梅市内で発見されて、御岳神社に戻されたという逸話が残っています。

長谷川恒男とは?!

東京都青梅市にある御岳山に2011年(平成24年)10月10日に長谷川恒男が亡くなってから20年を記念して、顕彰碑が建立されました。トレイルランナーたちが魅せられる『日本山岳耐久レース』長谷川恒男カップと名前が残されている長谷川恒男の人生とは?

生涯

1947年(昭和22年)12月8日神奈川県愛甲郡愛甲町半原に生まれました。

15歳の時に初めて丹沢に登っています。その時に自然の素晴らしさに感動してすっかり山の魅力にとりつかれるようになりました。そして17歳で岩登りと出会いました。

霧峰山岳会(むほうさんがくかい)に入り、めきめきと腕を上げていきました。

1971年(昭和46年)日本アルパインガイド協会公認ガイドとなりました。

1973年(昭和48年)26歳の時に第2次RCC(ロック・クライミング・クラブ)エベレスト登山隊に参加。その登山隊は48人という大所帯での登山となりました。サポート隊としてサミッターの生還を助けて、大活躍しましたが、自分自身の登頂はなりませんでした。そして、見捨てられたという誤解から隊への不信となり加藤保男との対比という視点でも見られるようになり、長谷川自身も組織の中での登山の難しさを知ることになります。これを機会に、これから後は単独傾向が強まっていきました。

1974年(昭和49年)3月、 冬季ではまだ未踏だった谷川岳一ノ倉沢滝沢第2スラブを単独で初登頂に成功。

1977年(昭和52年)2月 マッターホルン北壁 冬期単独登頂に成功。北壁の冬期での単独登頂はワルテル・ボナッティに次いで二人目となりました。

1978年(昭和53年)3月、アイガー北壁 冬期単独で初登頂に成功。

1979年(昭和54年)3月、 グランド・ジョラス北壁 冬期単独初登頂。これでアルプス三大北壁の冬期単独登攀の成功は世界初となりました。

1981年(昭和56年)アルパインガイド長谷川事務所を設立。南アメリカ最高峰のアコンカグア南壁の冬季単独初登攀に成功。

1982年(昭和57年) 第1回ジュニア・アルピニスト・スクールを開催。パタゴニア・フィッツロイ北東壁新ルート試登しています。

ここから彼の遠征は、すべて敗退しています。

1983年(昭和58年)ダウラギリI峰(北東稜)。吉尾弘が副隊長として参加。

1984年(昭和59年)ナンガパルバット(南東稜)、ナンガパルバット中央側稜単独。

1985年(昭和60年) チョモランマ(北東稜)。雪崩で2名が遭難しています。

1987年(昭和62年)チョモランマ北東クーロワール。

1988年(昭和63年)チョモランマ北東クーロワール。

1990年(平成2年)当時未踏峰だった パキスタンのウルタルII峰南西壁。

1991年(平成3年)10月10日、午前10時10分にウルタル2峰で雪崩に巻き込まれて星野清隆と共に遭難で亡くなりました。享年43歳。遺体はフンザ渓谷内のベースキャンプ近くに埋葬されていて、墓地も造営されいます。

奥多摩を舞台に走ろう!

奥多摩を舞台に走ろう!

奥多摩っていいよ